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スサノオ・ザ・ブッダ再来

先ずはインドの覚者OSHOの言葉からだ。

これまでの人類は、魂は実在するが物質は実在しないと信じるか、逆に物質は存在するが、魂は実在しないと信じるか、そのどちらかで生きてきた。


過去の人類は、必ず唯心論か唯物論かのどちらかに分かれていた。

しかし、人はその両方だ。彼は精神性だけではなく、ただ物質だけでもない。


彼は物質と意識の途方もない調和だ。

 

あるいは物質と意識は別々なものではなく、一つの現実の二つの側面に過ぎないのかもしれない。

 

物質は意識の外面であり、意識は物質の内面だ。

 

しかし過去において、哲学者や賢者や宗教的神秘家のうち誰一人として、この統合を宣言したものはいなかった。

 

彼らは、一方は真実だが他方は幻影に過ぎないと言って、人間を分割する道を選んできた。

そのことが惨めさや苦悩を生みだし、決して終わることのないような闇夜をつくりだしてきた。

 

肉体に耳を傾ければ、自分自身を非難するはめになるし、ただ意識だけに耳を傾けるなら、自分の成長は釣り合いが取れない。

 

意識は成長するが、肉体は委縮して、バランスが失われてしまう。

 

そのためにバランスにこそ健全さがあり、バランスにこそ全体性があり、バランスにこそ喜びや歌やダンスがある。 

西洋は肉体に耳を傾けることを選び、意識という現実に関する限りまったくツンボになってしまった。その最終的な結果は、高度な科学、発達した技術、豊かな社会、日常的、世俗的なものの豊かさのただなかにあって、魂を欠いた。

 

反対に東洋は意識を選び、物質と物質的なものすべてを、ただ見かけだけで現実には存在しないマーヤ(幻影)、砂漠の蜃気楼として非難してきた。

 

だが東洋はそのために、空腹で飢えた。犬のように死んでいく何百万という貧しい人々を生みだしてきた。

その責任は私たちのすべての聖人---このはかり知れない犯罪の責任は、すべての哲学者(唯心論者と唯物論者の両方)の双方にある。

そして両方の真実の統合としての人材は「ゾルバ・ザ・ブッダ」である。

 

ブッダはむろんおわかりだろうが、人間意識の最高の高みに立った人物ではあるが、彼は残念ながら地上の人ではなく、空を駆ける人だ。

 

鳥は両翼があってよく天空を飛ぶが、仏陀はその点においては片翼の人でしかなかった。


それに対しギリシャの作家カザンザキスの小説「その男ゾルバ」の主人公ゾルバは、肉体の快楽、地上の快楽を信じた男である。

 

彼は来生において自分に何がおこるか、天国に入るか、地獄に投げ入れられるかなどまったく気づかうことなく、生をその極限まで楽しんだ男だ。

 

彼は山に入って石塊の落ちて行くさまにすら、生々とした生命感を感じ、満月の夜には、楽器を持って潮騒の聞こえる浜辺で歌い、踊ることのできる人物だ。

しかしゾルバは踊ることができ、歌うこと、祝うことができても盲目だ。

 

ブッダは見ることができるが、ただそれしかできない。

 

彼は純粋なる目と明晰さと知覚を持つが踊れない。

 

彼は片端であり、歌うことができないし、祝うこともできない。

 

ゾルバは半分であり、ブッダも半分だ。これが結びつくとすれば、それは物質と魂の統合だ。

それは物質と意識の間には葛藤がないということで、私たちはその両面において豊かになることができるという宣言だ。

 

それを肉体と魂は一つだと言う、「存在」はスピリチュアリティ(精神性)に満ちていると言う。

 

山々ですら生きており、樹々にすら感受性があるという宣言だ。

 

この全存在はその両方だ。

 

あるいはおそらく、物質と意識という二つの現れ方をするただ一つのエネルギーだ。

そのため「ゾルバ・ザ・ブッダ」というのは、この世のもっとも豊かな可能性だ。

 

この両者のドッキング体は自らの本性をその極限まで生きる。彼はこの大地の歌を唄う。

 

彼は大いなる大地を裏切らないし、また聖なる天空を裏切ることもない。

過去の人間が貧しかったのは、彼が「存在」を分割していたからだ。

 

新しい人間、ゾルバ・ザ・ブッダは、この全世界が自分の家であると主張する。

 

そこに含まれるものすべてが私たちのものであり、私たちはそれをあらゆる可能なやり方で使わねばならない。

 

どんな罪の意識を持つことなく、葛藤もなく、選択もせずに、われわれはあらゆる物質を楽しむことは可能だし、あらゆる意識を祝うことも可能なのだ。

                                                                            OSHO

愚僧はOSHOの言葉を全面的に支持する。支持するというよりも、これが真実だ。

 

そのことを批判する立場の者がいれば愚僧は甘んじて批判を受けようではないか。

 

でも次のことを覚えておくがいい。

 

批判とは批判する者の自分自身の恐怖の影を投影したものだ。

 

批判する者の抑圧した、あるいは見たくない己のエネルギーなのだ。

 

批判する者の仮面(パーソナリティやアイデンティティ)に、そぐわない観念を切り離して現実の社会や人々に向けられるスケープゴートでしかない。

 

人々の罪悪感や劣等感は世間に投影されて攻撃するような仕組みが古来から繰り返されてきた。それが戦争や内乱の原因だ。


自分自身が内なる神々だと悟った者が、どうして怖がる必要があるだろうか?


何を怖がらなければいけないのだろうか?


覚醒した者が酒を飲む、肉を食べる、女を抱く、金を稼ぐ・・これらの事を何故に恐れなければいけないのか?


もし仮に宗教家でこれらのことを恐れている者たちが居るならば、それは彼らの内面から来る恐怖の衝動だ。

 

執着だ。

 

世俗的なことを嗜むことを怖れる?光明を得た者が?
 

 

人間の存在とは、そんな偏ったものではない。

 

身体の叡智は、そんな小賢しいものではない。

 

内なる神仏を知ったならば、一度でも垣間見たならば、それらは消えることはない。


何故ならば消えようがないからだ。

 

それは人間が誕生する前から存在していた純粋なる宇宙意識そのものだからだ。
 

愚僧は日本古来の神であるスサノオが半分。ブッダが半分で統合されている。
 

スサノオは神だが乱暴者で駄々をこねたり、悪戯好きの性格を持つ反面、困った者を現実の問題として対処していきながら救う人間臭さがある。

 

そして壮大なロマンがある。

 

これは人間世界の二元論では絶対必要とされる現世利益の感がある。

 

元極道の愚僧は社会の裏側も表側も天国も地獄も垣間見た。

 

この経験は今となれば日々訪れる相談者の現実的問題に対処していける自負がある。(DV、家庭内暴力、鬱病、覚醒剤常習者の悩み、借金問題、相続問題、離婚、事業の問題、所謂、世俗的な問題である)


これはスサノオとしての愚僧が物質的な力や知恵を駆使して救うことが出来るだろう。


でも、それだけでは片手落ちだ。

 

精神の世界、スピリチュアルな部分も人間は求める。
 

 

自分自身の存在の問題、魂や心身の真の解放はブッダの導きが必要だ。

 

これにはスサノオの半分の部分であるブッダとしての愚僧が担当する。

 

スサノオ・ブッダの統合、それこそが真の人生の謳歌であり宇宙コスモスとしての調和である。


時に瞑想をして時に音楽を楽しみ、時に詩を紡いで、時に感情の嘔吐として絵画を描く。


時に酒席で狂い、時に愛する者たちの境遇に涙する、時に拝まれ、罵られながら托鉢して飯を食う。

 

時に弱者への慈悲を抱き、時に巨大権力の理不尽に憤慨する、友人との絆を愛し、恋をして魂が踊る。


その一瞬がすべてであり全てが宇宙や神仏の表現である。

 

だからこそ愚僧は言うのだ。
 

魂のアーティストであると。

 

愚僧自身が宇宙や神仏の表現でありアート作品なのだ。
 

自分自身のすべてを愛することだ。

 

自分自身をすべて受け入れることだ。

 

自分自身を裁かず全てを許しなさい。

 

天上天下唯我独尊。自分自身に存在するものしか人には与えられない。天上天下唯我独尊。

 

この言葉の真の意味が分かれば世界から争いは消え失せる。


しかし勘違いしてはならない。


愚僧は己の正当化をしてるわけではない。

 

愚僧は、その行動の全ての流れを観ているものだ。

 

玄龍という作品を静寂から観ている者だ。

 

是非も善悪も長短も生死さえも超越して観ている目撃者、観察者だ。だからこそ人生の質がアートになり得るのだ。

 

それが真の愛や慈悲ということを忘れてはいけない。

 

天上天下唯我独尊・・この唯我の我は宇宙としての我である。

 

ワンネスであり空(くう)なのだから全人類が我であり我が全人類ということ。

 

だから愚僧はここに宣言する。

 

愚僧が行動する、すべての行為はすべてが唯我としての我を成就するためにすることだ。

 

世の為、人の為ではない。

 

世も人も宇宙としての我の中に存在する。

 

それは神仏でさえも・・それが即身成仏だ。


東洋の叡智が産んだ スサノオ・ザ・ブッダの再来である。

 

 

 

 

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